Masuk「困ります! アポイントメントは明日のはずですが!」
「Please, let me pass! I need to speak with President Tendo immediately!」 受付の女性が、大柄な外国人男性を必死に押しとどめようとしている。 男性は顔を真っ赤にして怒鳴り散らしており、英語とフランス語が入り混じった早口でまくし立てていた。「どうした」 ただならぬ気配を感じ取って、奥から秘書室長の男性が飛び出してくる。「室長! フランスの提携先の……ベルトラン氏がいらっしゃったんですが、アポの日時を間違えられているようで……! 今すぐ社長に会わせろと!」「馬鹿な。社長は今、重要なウェブ会議中だ。絶対に邪魔はできない。通訳はどこだ」「それが、担当の通訳が別件で外出中で……英語で説明しても、興奮されていて話が通じなくて……」 現場はパニック状態だった。 ベルトラン氏はフランスの大手宝飾ブランドの重役だ。ひとたび機嫌を損ねれば、数億円規模の契約が白紙になりかねない。 室長が額に冷や汗を浮かべながら、拙い英語でなだめようとするが、相手の怒りは火に油を注いだように燃え上がるばかりだ。「Non, non! C'est inacceptable! Je suis venu de loin!(駄目だ、受け入れられん! 遠路はるばる来たんだぞ!)」 このままでは、警備員を呼んで摘み出すしかなくなる。そうなれば国際問題だ。 気がつくと、私は席を立っていた。 すくみそうになる足を叱咤して、騒ぎの中心へと歩み寄る。「……Excusez-moi, Monsieur.(失礼いたします、ムッシュ)」 喧騒の中に、私の声が落ちた。 よく通る、けれど決して耳障りではない静かな声。一瞬、場が水を打ったように静まり返る。 ベルトラン氏が、怪訝そうに私を見下ろした。「Qui êtes-vous?(「……少し、待っていて。君に着替えを用意してあるから」「着替え?」「ああ。その服……汚れているだろう?」 蒼くんの視線が、私の服に向けられる。病院から逃げ出したままの格好だ。確かに少し皺になっているけれど、汚れているというほどではない。「汚れてなんて……」「汚れているよ。……あの男の匂いがする」 蒼くんの顔から、ふっと笑みが消えた。真顔だった。能面のように感情のない顔で、彼は私の首元――スカーフの下にある、征也がつけたキスマークのあたりをじっと見つめていた。「……穢(けが)らわしい。君のような純粋な花が、あんな野蛮な獣の匂いを纏っているなんて、耐えられない」 彼は吐き捨てるように言うと、奥の部屋へと消えていった。残された私は、自分の首元を押さえ、震えを抑えるのに必死だった。怖い。 何かがおかしい。蒼くんは、私の知っている穏やかな幼馴染とは違う。言葉の端々に覗く独占欲。潔癖なまでのこだわり。それは征也の強引さとはまた違う、もっと湿度が高くて、粘りつくような執着だ。 しばらくして、蒼くんが戻ってきた。手に、真っ白な箱を持っている。「さあ、莉子ちゃん。これに着替えて」 箱が開けられ、中身が取り出された。それは、純白のワンピースだった。フリルとレースがあしらわれた、少女趣味なデザイン。 清楚と言えば聞こえはいいが、今の私の年齢で着るには、あまりに幼く、浮世離れしている。それに。「……これ、サイズが……」 見ただけで分かった。明らかに、小さい。中学生か、高校生くらいの少女が着るようなサイズ感だ。「サイズ? 大丈夫だよ。昔の君なら、これくらいぴったりだったはずだ」「昔って……もう10年近く前の話よ。今は無理だわ」「入るよ。君はあの頃から、何も変わっていないはずだから」 蒼くんは、夢見るような瞳で私を見つめた。焦点が合っていないよ
「……それより、着いたよ。莉子ちゃん」 車が速度を緩め、砂利道をゆっくりと進む。木々の切れ間から、忽然と姿を現した建物を見て、私は息を呑んだ。「ここ……?」 それは、別荘と呼ぶにはあまりに異質な建物だった。コンクリート打ちっ放しの、要塞のような外観。窓は極端に少なく、あっても鉄格子のようなデザインが施されている。 周囲には民家の一軒もなく、鬱蒼とした森が黒い壁のように取り囲んでいた。美しいけれど、冷たい。生活の匂いがまるでしない、無機質な箱。「僕の隠れ家(セーフハウス)さ。ここなら誰も来ないし、誰にも見つからない」 車が止まる。運転席から降りてきた男が無言でドアを開けると、蒼くんが先に降り、私に手を差し伸べた。 山の冷気が一気に流れ込み、私は身震いして車外に出た。静かだ。 鳥の声さえしない。風が木々を揺らす、ざわざわという音だけが、波のように押し寄せてくる。「さあ、入ろう。……君のための『城』だよ」 蒼くんに背を押され、重厚な鉄の扉をくぐる。カチャリ、と鍵が閉まる音が、背後で重く響いた。まるで、檻の中に閉じ込められた小動物のような気分だった。 中は、外観と同じく無機質で洗練された空間だった。白い壁、白い床、白い家具。塵一つ落ちていない潔癖なまでの清潔さが、かえって居心地の悪さを増幅させる。 病院みたい。あるいは、標本を飾るためのショウケース。「お母さんは……?」 私はあたりを見回した。人の気配がない。広すぎるリビングには、私と蒼くんの足音だけが反響している。「彼女は別の棟にいるよ。医療設備が必要だからね」「別の棟? どこにあるの? 会わせて」「焦らないで。……移動の疲れが出ているみたいで、今は鎮静剤で眠っているんだ。会うのは明日にしよう」「そんな……顔を見るだけでいいの。無事かどうか確かめたいだけ」 食い下がる私に、蒼くんは困ったように眉を下げ、ため息をついた。
「……そうだね。今はまだ、怖いよね。ゆっくり休むといい」 彼は手を引っ込め、再び前を向く。私は小さく息を吐いた。なぜ、こんなに拒絶してしまうのだろう。彼は幼馴染で、私を助けてくれた恩人のはずなのに。 触れられそうになった瞬間、生理的な警鐘が鳴り響く。『違う』と。『その手じゃない』と、身体中の細胞が叫ぶのだ。私の肌が覚えているのは、もっとゴツゴツとした、節くれだった指。乱暴で、痛いくらいの強さで、でも触れるたびに所有の証を刻み込んでくるような、あの熱い手だけだ。(……征也くん) 心の中で名前を呼ぶだけで、胸が張り裂けそうになる。今頃、彼はどうしているだろうか。病院で私が消えたことを知って、激昂しているだろうか。それとも、私の裏切りに愛想を尽かして、冷笑しているだろうか。『追跡しろ』 そんな声が聞こえた気がした。彼は絶対に私を諦めない。地の果てまで追ってくる。その確信が、恐怖であり、同時にどうしようもない救いのように思えてしまう自分が、死ぬほど情けなかった。 ◇ 車は高速道路を降り、曲がりくねった山道へと入っていった。木々の緑が濃くなり、対向車もまばらになる。人家の明かりなどとうに消え失せ、窓の外に広がるのは、深海のような深い森の闇だけだ。「……ねえ、蒼くん。まだ着かないの」 募る不安に耐えかねて尋ねる。時間を確認しようと、ポケットに手を入れた。「あ」「どうしたの?」「スマホが……ない」 ポケットの中は空っぽだった。バッグの中を探っても、どこにもない。病院から逃げる時は確かに持っていたはずだ。蒼くんからの指示を受け取ったのも、あの端末だったのだから。「ああ、それなら僕が預かっているよ」 蒼くんは何でもないことのようにさらりと言った。「え……?」「さっき、君が眠っている間に回収させてもらった。……ほら、天道に見つかるといけないからね。GPSで
グレーのワンボックスカーは、都心の喧騒を置き去りにしてひたすら走り続けていた。窓の外を流れる景色は、無機質なビルの群れから、やがてまばらな住宅街へ、そして鬱蒼とした緑の壁へと移り変わっていく。 タイヤがアスファルトを噛む単調な走行音と、微かなエンジンの振動だけが、車内の重たい沈黙を埋めていた。「……蒼くん、どこへ向かっているの」 何度目かの問いかけに、隣に座る神宮寺蒼は、穏やかな笑みを私に向けた。銀縁眼鏡の奥で細められた目は優しげで、怒っている様子も、焦っている様子もない。まるで、天気のいい休日にドライブへでも出かけているような、拍子抜けするほど軽い調子だ。「少し遠くだよ。……天道の手が届かない場所まで行かないと、君を守れないからね」「でも、お母さんは……? 別の車で移動しているって言ってたけど、合流できるの」「大丈夫。スタッフが万全の体制で搬送してるよ。到着したらすぐに会えるさ」 蒼くんの声は、滑らかで心地いい。けれど、なぜだろう。その言葉を聞くたびに、胸の奥に冷たい澱が沈殿していくような、ざらりとした違和感を拭えない。「大丈夫」「安心しろ」。それは、かつて征也が私に向けていた言葉と同じだ。けれど、征也の言葉には、私の不安を力ずくでねじ伏せるような圧倒的な熱量と、何があっても責任を取るという覚悟のような重みがあった。 対して、蒼くんの言葉は軽すぎる。綺麗にラッピングされた空箱のように、中身の温度が感じられない。(……比べてる) 私は膝の上で、スカートの生地をぎゅっと握りしめた。逃げ出してきたくせに。父の仇だと知って拒絶したくせに。私の身体はまだ、天道征也という男の強烈な引力圏から抜け出せずにいた。 空調の効いた車内は適温に保たれているはずなのに、肌寒くて仕方がない。二の腕をさすると、鳥肌が立っているのが分かる。征也の腕の中にいた時は、息苦しくなるほど暑かったのに。 あの、ムスクと煙草の混じった匂い。火傷しそうな体温。私を閉じ込め、窒息させんばかりに抱きしめる力強さ。それらが欠落したこの空間は、
私は彼の手を掴み、車内へと飛び込んだ。「出して!」 蒼くんが運転席に向かって叫ぶと、車はタイヤを激しく軋ませて急発進した。 ゲートを強引に突破し、地上へ出る。 背後で、病院の騒ぎが遠ざかっていく。 私はシートに深々と沈み込み、肩で息をした。 手足の震えが止まらない。 やってしまった。 本当に、逃げ出してしまった。「……怖かっただろう。もう大丈夫だよ」 蒼くんが、震える私の肩を優しく抱き寄せた。 ふわりと鼻をかすめる、清潔な石鹸の香り。 でも、なぜだろう。 その温もりに触れた瞬間、私の身体は石のように強張り、本能的な拒絶反応を示していた。 違う。 征也の、あの荒々しい熱とは違う。 煙草と微かな香水、そして男臭い体温。あの圧倒的な質量を感じさせる匂いがここにはない。 この優しさは、どこか薄っぺらで、温度のない作り物めいた感触がする。「ありがとう、蒼くん……。でも、お母さんは……?」「安心して。僕の息のかかったスタッフが、混乱に乗じて連れ出す手はずになってる。……君のお母さんも一緒に、誰も知らない安全な場所へ移そう」「本当? よかった……」 安堵で視界が滲む。 これで、やっと自由になれる。 征也の理不尽な支配から、あの冷たい屋敷から、解放されるんだ。 そう思った瞬間。 胸の奥を鋭利な刃物で抉られるような、激しい痛みが走った。 まるで、心臓の半分をあの屋敷に置いてきてしまったような、耐え難い喪失感。(さよなら、征也くん……) 車窓を流れる街の景色を見つめながら、私は心の中で別れを告げた。 憎んでいたけれど、誰よりも愛していた。 そのどうしようもない矛盾した想いごと、私は今日、すべてを捨てる。 ◇ 病院の地下駐車場の片
蒼くんだ。 見慣れた文字の並びに、背筋が寒くなるほどの覚悟を感じる。 彼は、強硬手段に出るつもりだ。 火災報知器なんて、そんな大ごとにして大丈夫なの? でも、この鉄壁の監視網を抜けるには、これしか好機はないのかもしれない。 私は紙切れをくしゃりと握りつぶし、勢いよく立ち上がった。「そろそろ、戻ります」 SPたちに告げ、エレベーターホールへ向かう。 一階へ降りるボタンを押す指先が、小刻みに震えているのが分かった。 自分の心臓の音がうるさい。 征也の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。 今朝見た、あのボロボロに傷ついた背中。 私が逃げたら、彼はどうなってしまうのだろう。 本当に壊れてしまうのではないか。(……同情しちゃだめ。彼は、お父様を陥れた仇なのよ) 唇を血が滲むほど強く噛み締め、迷いを断ち切る。 チン、と軽い音がしてエレベーターが一階に到着した。 扉が左右に開く。 その瞬間。 ジリリリリリリリリリ!!! 耳をつんざくような暴力的なベルの音が、ロビー中に鳴り響いた。 悲鳴、怒号、ざわめき。 平和だったロビーが一瞬で戦場のように変わる。人々がパニックになり、出口へと殺到する。「なっ、火災か!?」「奥様、こちらへ! 避難誘導します!」 SPたちが太い腕を伸ばし、私を掴もうとする。 今だ。「きゃっ!」 私はわざとらしく誰かにぶつかったふりをして、逃げ惑う人混みの中へと倒れ込んだ。 SPの手が空を切る。 人の波が、私と彼らを物理的に分断した。「奥様! どこですか!」 彼らの野太い叫び声を背に、私は非常口の緑色のランプを目指して走った。 重い扉を押し開け、階段を駆け下りる。 一段飛ばしで降りていくたびに、足への衝撃が脳を揺らす。 地下一階、地下二階。 息が切れ、肺が焼けるように熱い。足がもつれて転びそうになる。







